幻聴が聞こえたら

病気になる原因とその分類について

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2007年12月3日
2009年2月25日 修正




○はじめに

 今回は、病気になる原因とその分類について書きます。私は、この頃、チベット医学に関する本を何冊か読んだのですが、その内容は、私がそれ迄にかかえ込んでいた疑問をすっきりと解決してくれるものでした。どういう事かと言いますと、私は“自然の法則に従い、愛他的に生きる”事が好ましい心的状態につながっていくと信じており、記事にもそう書いて来ましたが、その一方で、その様な表現では、実生活における心がけとするにはいささか抽象的である様に感じてもいたのです。

 例えば、『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』(スタン・バラード/ロジャー・グリーン共著・近藤千雄訳、ハート出版)という本があるのですが、その第7章「霊的治療」の質疑において、霊的治療を受ける患者のなかには前世でこしらえたカルマを持ち越している人がおり、その様な人は、霊的な治療を受けても治癒効果が出ない、という主旨のやりとりが行われます。しかし、初めてこの内容にふれた当時、私には、このカルマという要素についての理解が及びませんでしたので、いわば、その要素については素通りする様にして、読み進めていったのでした。
 
 ところが、先日、『チベット医学』(イェシェー・ドゥンデン著、地湧社)という本を読む機会がありました。そうしたところ、その内容に興味が沸いてきまして、続けて何冊か読んだところ、病気が生じる原因についての新たな知識を得る事ができた為、今回は、その内容で執筆したという次第です。

○病気の分類について

 チベット医学は、その起源を紀元前二千年のヴェーダ時代のインドにまで遡る事のできる、仏教と一体となった医学体系なのだそうです。そのチベット医学においては、病気が生じる原因について次の様に分類されています。


1.過去生のカルマ(行為)に起因する101の病
 →チベットにおいてこの病にかかった者は、しばしば俗世を捨てて仏教的な修行生活に専念する。
2.今生のカルマ(行為)に起因する101の病
 人生の前半に行ったカルマの結果が、人生の後半に現われて病に
 →医学的な治療だけでなく、過去の悪行を懺悔し、善い行いをして悪しきカルマの力を減じ、今後再びその様な悪しき行いをしないと誓いを立てる。仏教上の修行が必要。
3.鬼神による101の病
 →仏教的な手段で障りとなっている鬼神を折伏する。
4.表面的な101の病
 →投薬やそれに付随する治療を行わなくても、規則正しい生活、正しい食生活で治る。
注 原因により治療方法が異なる
(イェシェー・ドゥンデン[著]『チベット医学』(地湧社)23頁より)


○それぞれの病気が生じる原因について

 まず、四番目の「表面的な101の病」については、アンドルー・ワイル氏の著書『癒す心、治る力』や、当サイトにおける「幻聴症状と自己治癒力 ~『癒す心、治る力』を読んで~」で扱っている内容に相応しいものである様に見えます。この病気は、悪い食物・不規則で有害な行為(睡眠不足、過労、不道徳な生活、毒物の摂取など)を避け、環境的要因・心理的要因(心配、緊張、悲しみ、怒り、突然のショックないし恐怖などを避ける)を考慮することにより、自然に治癒するのだそうです。それは、逆説的には、この病気は、これらの要因への対応をいい加減にする事により生じる、という事でもあります。
 
 ところで、これまで私の理解の及ばなかったところですが、仮に、この病の要因について上手く対処することができた場合においても、他の原因による病気、例えば、カルマに起因する病気は治癒する事ができません。しかし、逆に、この病がきっかけとなり、他の原因による病気が生じる、つまり、複合的な原因により病気が生じるという事はあり得るのだそうです。

 三番目の「鬼神による101の病」は、『迷える霊との対話』(C.A.ウィックランド著、ハート出版)における中心テーマであり、当サイトにおける「先祖供養と心の病について」でもふれている病気に分類される様に見えます。同じ様に心境の低い霊でも、鬼神、鬼霊、悪魔、悪霊、未成仏霊などと、様々に表現する事ができるのですが、これらの“人を征服し、その人間の身体活動・言語活動・精神活動に取って代わる悪魔的な影響力”により病気になるケースが、この病気に当て嵌まります。この様に、否定的なエネルギーが人の魂に侵入するのは、その人間が心理的に虚弱であり、抵抗力を持っていないからだといわれていますが、また、鬼神が単独で病気の原因になる場合と、心理的要因などと共に(複合的な原因により)病気の原因になる場合とがあるのだそうです。

 それでは、鬼神とは、いかなる存在なのでしょうか。それは、一つには、自意識を持ち、心境が低い為に地上的な磁場から抜け出せずにいる霊的存在の事です。『迷える霊との対話』において、著者であるウィックランド博士が、チャールズ・ザ・ファイターと名のる未成仏霊と対話をする場面があります。この霊は、生前は婦女子ばかりを狙う残酷な殺人狂集団に属していたのですが、ある切っかけから、自らが殺される事になったのでした。しかし、当人は自分が死んだ事に少しも気付かず、生きた人間に憑依し、その人間をそそのかし、殺人を犯させ続けていたのでした。そして、その様な罪を犯した罰として、自らが殺した(殺させた)人間の幻影に苦しめられ続けてもいたのです。
 
 そして、それは、幸福や霊的な発達を妨げるあらゆるものを表現する、象徴的な言葉でもあります。例えば、仏教においては、悟りへの道に立ち塞がる障害として、「四魔」がよく知られているのだそうです。


 1)五蘊魔(skandha-mara)--心身のもろさ。
 2)煩悩魔(klesa-mara)--煩悩がもつ破壊的な力。
 3)天子魔(devaputra-mara)--安楽にまつわる魅惑的な罠。
 4)死魔(marana-maraあるいはmrtyu-mara)--いつかは必ず訪れる死。今生の生を断ち、それとともに霊的な成長の機会を失わせる。
(テリー・クリフォード[著]『チベットの精神医学』(春秋社)204頁より)


 この「四魔」を含む鬼神(悪魔)は、意識下において(あるいは不可抗力的に)影響力を行使し、より高い心境に至ることを妨げる内的および外的要因なのだそうです。こうした鬼神の力は、ごく小さな無意識的な生来の性癖から、怠惰、色欲、悪い仲間、二元論的思考、異常なほど過敏な感受性、過激な感情、富への執着、党派心、慢心、懈怠といったものまで含まれます。それは、例えば、悪事を実行するように促す鬼神の声が聞こえれば外的要因だといえますが、悪事を実行するか否かの心的な葛藤があるという事であれば、内的要因だといえるのではないでしょうか。ところで、実の所、これらの“鬼神”がこの世におけるあらゆる害悪や恐怖を生み出している原因なのであり、そうであるが故に、仏教の中心命題でもあるのだそうです。

 それでは、私たちが地上生活を送るにあたり、いかなる心がけが必要なのでしょうか。チベット医学においては、“不善の行為”として次の行いが戒められています。

 肉体における、殺生・盗み・邪淫。心における、貪り・怒り(邪まな企み)・邪見。言葉における、嘘・悪口・ざれごと・二枚舌

 この内容は、仏教で説かれているところの“十悪”と同じものです。これらの行為は、自らの精神的な弱さなどが原因となり、鬼神と感応したが為に犯す不善の行為なのであり、カルマをためる行為でもあります。つまり、病気の分類における、一番目と二番目の原因とも関係してくる行為であるわけです。
 
 例えば、ドストエフスキーの小説『罪と罰』において、主人公のラスコーリニコフは、金銭的な問題により大学を辞めざるを得なかったのですが、その精神的なショックに加え、劣悪な住環境と食事の影響をも受け、精神的に不安定な状態にありました。彼の心理描写において、未成仏霊の影響を受けている事を示唆する様な表現が度々出てきます。そして、その様な病的な精神状態にあったある日、彼は、遂に質貸しの老婆を殺してしまうのでした。殺生という“十悪”を犯してしまったのです。
 
 彼の場合は、病気の分類における四番目の「表面的な101の病」が切っかけとなり、次に、三番目の「鬼神による101の病」が生じ、その霊に操られる様にして、殺生という“十悪”を犯し、(来世にも悪影響を与えるような)カルマをためる行為をしてしまった、つまり、一番目と二番目の、カルマによる病気の原因を拵えてしまったわけです。彼は、老婆を殺したその夜に、朦朧とした意識のなか、不思議な幻聴を聞きます。私は、この記述にふれ、殺生という不善の行為が、彼に魂に罪(の意識)の烙印を押すと共に、彼の心境を不成仏霊と感応する迄に低めてしまった様に感じました。

 最後に、病気の分類における、一番目の「過去生のカルマ(行為)に起因する101の病」と、二番目の「今生のカルマ(行為)に起因する101の病」についてふれさせていただきます。カルマをためる様な行為とは、いかなる行為なのでしょうか。チベット医学においては、“あらゆる精神病は、前世において誰かに苦をもたらしたというカルマのなかにその種子を持っており、その結果は因果応報の理にのっとっている”といわれています。例えば、“前世において他人の瞑想を妨害したり、あるいは一般の善良な人々に危害を加えていたとしたら、その結果、現世において突然に、しかもはっきりした原因もなく、大きな悲しみや陰鬱が訪れる可能性がある”のだそうです。私は、仏教で教えられているところの“十悪”を犯してしまう事が、そのまま、カルマをためることにつながっていくのだと理解しました。

 ところで、私がチベット医学に関係する本を読んで感じましたのは、チベット医学と仏教とは、互いに切り離せないものなのだそうですが、その内容において、仏教思想がストレートに反映されており、その幹になっている部分は極めてシンプルである、という事です。ブッダの教えそのものに、本来的に、病を癒す(予防する)ための一種の精神療法の様な要素があるのだそうです。

○結論として

 精神科医ハインロート( J.C.A.Heinroth,1773-1843)は、精神障害の究極的原因は「罪 sin」であると考えた。彼のいう「罪」とは、仏教徒がこの言葉で意味していること、すなわち慢心--自分の利益だけを図ろうとしておごりたかぶる本能的で知的な思い上がり--にきわめて近いものであった。ハインロートはさらに、自我の発達の最高のレベルは良心の同化、つまり他者の幸福を追求する精神的利他主義に至った段階であると述べている。要するに彼が述べた事柄は、まさに大乗仏教徒の理想である菩薩にほかならないのである。
 ハインロートの言及した「罪」は、現代精神医学では「罪の意識」と呼ばれている。「罪の意識」は「内的葛藤」つまり自らの道義心に背くことから生ずる。そしてこれがもろもろの精神障害を生み出すのである。(テリー・クリフォード[著]『チベットの精神医学』(春秋社)297頁より)


 仏教で教えられている“十悪”を犯すということは、カルマをためる行為なのであり、また、心境の低い霊の力とも関係のある行為です。しかし、私たちは、強い意志の力を発揮してそれらの不善の行為を避けることにより、将来において病気や不幸が生じる可能性を低くしていく事ができます。繰り返しますと、十悪(不善の行為)とは、肉体における、殺生、盗み、邪淫であり、心における、貪り、怒り(邪まな企み)、邪見(誤った見解)であり、言葉における、嘘、悪口、ざれごと、二枚舌、の事です。

 これらの不善の行為を避けると共に、自らの内面に目を向け、それを鍛え上げ、自然と調和した、また、利他的な生活を送ることにより、私たちは好ましい状態(高い境涯)へと移行していく事ができます。シルバーバーチ霊は、その説教において、人生観における“霊的な世界に対する理解”を、日常生活においては、困っている人を助けてあげるような“優しさ、愛で心を満たした生活”を推奨されているのですが、実は、チベット医学においても、表現こそ違えど同じ意味のことがいわれているのです。チベット医学においては、“光り輝く空性という絶対的真理の認識を得ることによって、あらゆる悪魔や悪霊を調伏することができる”と考えられており、“慈悲の啓発”をすることが、悪霊や悪魔に対処するための至高の薬である、と信じられています。それは、ブッダの説かれた教えも、シルバーバーチ霊の語られた霊的教訓も、実の所、同じ事柄について語られたのであり、その様であるものが異なる言葉で、異なる視点から語られたにすぎない、という事を意味しているのではないでしょうか。

 私たちの魂は、永遠に存続していきます。死後においても、私たちの意識というものは失われないのです。そのような前提を思い出したならば、カルマをためるという選択が、いかに愚かな選択であるかがわかるはずです。一方、十悪を避けて、霊的・利他的な生活を送るならば、その様な人は、将来に対して何の心配もする必要がない、幸福な人だといえます。その様な人は、肉体を持って地上生活を送ってはいても、霊界における高い境地と魂が感応しているのです。それでは、今回は以上の内容になります。


[参考図書]
イェシェー・ドゥンデン[著]『チベット医学』(地湧社)
タムディン・シザー・ブラッドリー[著]『癒しの医療 チベット医学』(ビイング・ネット・プレス)

テリー・クリフォード[著]『チベットの精神医学』(春秋社)
スタン・バラード/ロジャー・グリーン[共著]『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』(ハート出版)
C.A.ウィックランド[著]近藤千雄[訳]『迷える霊との対話』(ハート出版)
ドストエフスキー[著]『罪と罰 上巻』(新潮社)

[参考サイト]
因果の道理(Wikipedia)
チベット仏教(同上)
チベット医学(同上)
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所